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モネの絵 印象派形成


MONET

印象・日の出
1873年、32歳。
印象派画家たちが
最初に開いた展覧会に出品した。
批評家のルイ・ルロワが、
展覧会の作品を批判するために、皮肉って
「印象派たちの展覧会」という記事を書いた。
これが「印象派」という言葉の始まりである。
実はモネ自身も、これは未完成だと考えて
「印象」という言葉を付けたらしい。

ひなげし
1873年、32歳。
第1回"印象派"展に出品された作品。
場所はアルジャントゥイユ近郊。
親子のモデルはモネの妻と子供と言われる。
動きを与えるために時間に差のある同じ親子を
一枚の絵に描いたそうである。

キャピシーヌ大通り
1873年、32歳。ルイ・ルロワに
「絵の下に無数の黒いよだれがある」
と批判された。
一方、エルネスト・シェスノーは
「瞬間的で移ろいやすい街の喧騒を
みごとに描き出している」
と絶賛した。

アルジャントゥイユの橋
1874年、33歳。直線が多く、
黄色のおかげで河の青色が澄んで見え、
清涼感のある作品になっている。
アルジャントゥイユには、モネを訪ねて
マネやシスレーも来て絵を描いた。
印象派の発展に寄与した地と言える。

ラ・ジャポネーズ
1875年、34歳。
この愛らしい日本娘は、妻のカミーユ。
日本の着物を華やかに着せられている。
当時のパリでは”日本趣味”が流行しており、
モネにも影響を与えたようだ。

散歩
1875年、34歳。
妻のカミーユと子供のジャンがモデル。
緑の日傘をさして気持ち良さそうに
そよ風を受けている。
関連作品↓

日傘の女
1885年、44歳。「散歩」から10年後の作品。
カミーユが病死してから6年経っている。
こちらのモデルはアリスの子供シュザンヌ。
カミーユを追慕して描いたのか、
技法を確立してきたこの時期に若いころと同じ
構図に再びチャレンジしてみたのか。

 

サン=ラザール駅
1877年、36歳。近代化が進むパリで
新しくモネが目をつけたのは
蒸気のたちこめる駅だった。
このころから同じ題材を何枚も描くことを
始めており、サン=ラザール駅は12枚残っている。

死の床のカミーユ
1879年、38歳。
この作品に対するモネの言葉。
「あれほどいとおしかった人の死の床で、
色の変化を機械的に写している自分に気付いた。
色彩の衝撃によって手が勝手に動き出した。」
モネの色彩への執念を感じる。

ヴェトゥイユの画家の庭
1881年、41歳。
この時期の現実のモネ、アリス一家の
生活とは裏腹に、
とても明るい作品である。




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